米軍の爆撃目標となる 《大阪府・城・歴史》

明治新政府は城内の敷地を陸軍用地・城内の敷地を陸軍用地に転用し、城内への民間人の立ち入りは禁じられた。

東側の国鉄城東線までの広大な敷地には兵器工場が設けられ、このため後の太平洋戦争時米軍の爆撃目標となる。

1870年、陸軍は午砲台を設置して報時業務を開始した。

1885年、和歌山城二の丸より御殿の一部が移築され、「紀州御殿」と命名される。

1888年には、本丸桜門が復元された。1928年、当時の大阪市長關一は、天守の再建を提案し、集められた市民の募金150万円によって陸軍第四師団庁舎移転と天守建設がすすめられた。

天守閣の基本設計は波江悌夫が行い、再建工事は1930年に始まり、翌年に完成した。

太平洋戦争中の空襲では、1868年の火災では被害を免た二番櫓・三番櫓・未申櫓・伏見櫓・京橋口門を焼失、また青屋門に甚大な被害を受けた。

特に本土終戦前日の8月14日の空襲は、1トン爆弾が多数投下され、近隣の京橋駅も巻き添えとなり、避難していた乗客に多数の死傷者が出たほどだった。
update:2010年03月08日